📌 ピン留め 緩和ケアは「あきらめ」じゃない——緩和ケア医が伝える本当の意味

「緩和ケアを勧められた」と聞いて、どう感じますか? 「もう治療ができないということ?」「見捨てられた?」——そう受け取る方が少なくありません。緩和ケアの現場に関わって10年の私も、この誤解が患者さんや家族をどれだけ苦しめてきたか、何度も見てきました。 この記事では、緩和ケアの本当の意味を専門医の立場から正直にお伝えします。 1. 緩和ケアへの「よくある誤解」 緩和ケアと聞いて多くの方が思い浮かべるのは、こんなイメージです。 治療をやめた人が行くところ 残りの時間を過ごすだけの場所 受けたら死が近いということ これはすべて誤解です。 この誤解が広まっている背景には、「ホスピス」「終末期ケア」という言葉が混同されていることがあります。緩和ケアはもっと広い概念で、がんの診断直後から始められるものです。 2. 緩和ケアの正しい定義 WHO(世界保健機関)は緩和ケアをこう定義しています(2002年)1。 「生命を脅かす疾患による問題に直面している患者とその家族に対して、痛みやその他の身体的・心理社会的・スピリチュアルな問題を早期に発見し、的確なアセスメントと対処を行うことで、苦痛を予防・緩和することにより、クオリティ・オブ・ライフ(QOL: 生活の質)を改善するアプローチ」 難しく聞こえますが、要するに**「病気そのものだけでなく、生活の質を守る医療」**です。 痛みを取る、不安を和らげる、家族を支える——それが緩和ケアです。 3. いつから始めるのか 緩和ケアはがんと診断されたその日から始められます。 以前は「治療が終わってから」という考え方が主流でしたが、現在は世界的に「早期からの緩和ケア」が標準とされています。 理由は明確です。2010年に発表されたハーバード大学の研究では、進行肺がん患者に診断直後から緩和ケアを導入したグループは、通常の治療のみのグループよりも生存期間が長く、QOLも高かったという結果が出ています2。 「緩和ケアを受けると早く死ぬ」のではなく、早期に始めたほうが長く生きられる可能性があるのです。 4. 緩和ケアは何をしてくれるのか 緩和ケアがカバーする範囲は広いです。 領域具体的なケア 身体的な苦痛痛み・吐き気・息苦しさ・倦怠感のコントロール 精神的な苦痛不安・抑うつ・恐怖への対応、心理士・精神科医との連携 社会的な問題仕事・お金・家族関係の相談(ソーシャルワーカーと連携) スピリチュアルな苦痛「なぜ自分が」「残された時間をどう生きるか」という問いへの寄り添い がん治療中に「痛みはないけど気持ちがつらい」「仕事をどうすればいいかわからない」——そういった悩みにも緩和ケアチームが関わります。 5. 家族も対象になる 緩和ケアは患者さんだけでなく、家族も対象です。 「本人に告知すべきか」「どう支えればいいかわからない」「自分もつらいのに誰にも言えない」——介護する側の苦しみは見過ごされがちです。 緩和ケアチームは家族の相談にも乗り、必要であれば心理士や福祉の専門家につなぎます。患者さんが亡くなった後の「グリーフケア(悲嘆のケア)」も含まれます。 6. 緩和ケアを受けると治療が止まるのか? 止まりません。 緩和ケアは抗がん剤治療や手術と並行して行うものです。治療の代わりではなく、治療を続けながら生活の質を守るためのサポートです。 緩和ケア専門医は「抗がん剤をやめさせる人」ではありません。「治療中のつらさを和らげながら、より良く生きるための選択肢を一緒に考える人」です。 まとめ 緩和ケアについて、6つのポイントをお伝えしました。 「治療をあきらめた人のもの」は大きな誤解 生活の質(QOL)を守るための医療 がん診断の直後から始められる 身体・精神・社会・スピリチュアルな苦痛すべてをカバー 家族も対象になる 抗がん剤などの治療と並行して受けられる 「緩和ケアを勧められた」と言われたとき、それは「あなたの生活の質を守りたい」というメッセージです。あきらめではなく、より良く生きるための一歩として受け取ってもらえたら、と思います。 このブログでは、緩和ケアについてさらに詳しく解説していきます。疑問や不安があれば、お気軽にご相談ください。 筆者:田舎の県庁所在地に住む医師。外科学会専門医・乳癌学会認定医。現在は乳がんの検診・診断と緩和ケアを専門に担当。医師になって20年。 WHO. National Cancer Control Programmes: Policies and Managerial Guidelines, 2nd ed. Geneva: World Health Organization; 2002. 日本語訳は日本緩和医療学会による。 ↩︎ ...

April 24, 2026 · 1 min

最期まで治療を続けることが、幸せとは限らない——「引き算の医療」という考え方

がんの治療では、「できることはすべてやりましょう」という言葉に、患者さんもご家族も励まされます。検査を重ね、点滴をつなぎ、次の抗がん剤を探す——その一つひとつが「あきらめていない証」のように感じられるからです。 でも、病気がいよいよ進んだ最終段階では、「やれることを足し続ける」ことが、かえってご本人を苦しめてしまう場面があります。 この記事では、緩和ケアの現場で大切にされている**「引き算の医療」**という考え方を、患者さん・ご家族向けに説明します。これは「治療を打ち切る」「見捨てる」という話ではありません。何が本当にその人のためになるのかを、一緒に考え直すという話です。 「足し算の医療」と「引き算の医療」 医療には、大きく2つの方向があります。 足し算の医療:できる検査・治療を積み上げていく。病気を治す・抑えることが目的の段階では、これが正解です。 引き算の医療:ご本人の負担になるだけの検査・処置を、ていねいにそぎ落としていく。治すことが難しくなった段階で大切になります。 私たち医師は、長い教育期間のほとんどを「足し算」、つまり病気をどう治すかを学ぶことに使います。一方で、「どこで治療を控えるか」「何を手放すか」を体系立てて学ぶ機会は、実はとても少ないのです。 そのため、よかれと思って最期まで侵襲的な(体に負担のかかる)治療を続けてしまう、ということが起こりえます。引き算は、足し算よりもずっと難しい判断なのです。 「全力を尽くした」——それは誰のため? 終末期の医療を考えるとき、私が大切にしている問いがあります。 その検査・その点滴・その治療は、誰のために行うのか。 「できる限りのことをした」という満足感は、とても大切なものです。けれど、それが向いている先を、ときどき確かめる必要があります。 ご本人が楽になるためなのか ご家族が後悔しないためなのか 医療者がやり残したと思いたくないためなのか どれも自然な気持ちです。ただ、ご本人の体の負担と引き換えになっていないか——そこだけは、立ち止まって考えたいのです。引き算の医療は、この問いから始まります。 「引き算」の対象になりうる例 最終段階のがんでは、次のような医療が「引き算」の検討対象になることがあります。いずれもあくまで一例で、実際には一人ひとりの状態と本人の希望を踏まえて、ご本人・ご家族・主治医が一緒に判断します。 ① 厳しすぎる血圧・高血糖の管理 血圧や高血糖を厳しく管理するのは、何年も先の合併症(脳卒中や腎臓病など)を防ぐためです。残された時間が限られた段階では、その目的は薄れます。むしろ、頻繁な測定や食事制限がご本人の負担になることもあります。 ② 症状につながっていない採血と補正 「採血の数値が悪いから直す」のは、その異常がつらい症状を起こしているときに意味があります。本人が何も困っていないのに、数値のためだけに何度も針を刺すのは、採血そのものが苦痛になりかねません。 ③ 症状を伴わない「数値だけの輸血」 貧血があっても、ご本人がだるさや息苦しさを感じていなければ、輸血で数値を上げる意義は乏しくなります。終末期の輸血は、症状改善の効果が限られる(だるさや息苦しさが一時的に和らいでも、その効果は2週間ほどで薄れていく)ことが、複数の研究をまとめたコクラン・レビューでも報告されています。 ④ 多すぎる点滴(補液) これは特にご家族に知っておいてほしい点です。 「点滴くらいしてあげたい」という気持ちは、とても自然なものです。けれど最終段階では、体が水分をうまく処理できなくなっていることが多く、点滴を多く入れると、かえってむくみ・痰・胸の水・呼吸の苦しさを悪化させてしまうことがあります。 実際、日本・韓国・台湾の患者さん2,638人を対象にした研究では、1日の点滴量が250〜499mL程度の方が、「おだやかな最期」を表す指標(Good Death Scale)の得点が高かったと報告されています。日本緩和医療学会のガイドラインも、終末期に一律の大量補液は行わないことを勧めています。「点滴を減らす=何もしない」ではなく、苦しさを増やさないための引き算なのです。 ⑤ 体力が落ちた段階での抗がん剤 体力(全身状態)が大きく落ちた段階での抗がん剤は、効果が得られにくい一方で、副作用の負担が重くのしかかります。米国臨床腫瘍学会(ASCO)の「Choosing Wisely(賢明な選択)」でも、全身状態が不良な患者さんへの抗がん剤は控えるべき過剰医療の代表例として挙げられています。場合によっては、かえって命を縮めてしまうこともあります。 なぜ、引き算は難しいのか ここで、知っておいてほしいデータがあります。 治癒が難しい段階で化学療法を受けている患者さんを調べた米国の研究(2003〜2005年に診断された1,193人が対象。2012年報告)では、抗がん剤が**「治すための治療ではない」ことを理解していなかった方が、肺がんで69%、大腸がんで81%**にのぼりました。 これは患者さんが悪いのでも、医師が嘘をついたのでもありません。「治らない」という事実は、伝えるのも受け取るのも、それほど難しいということです。 そして、この理解のずれがあると、引き算の話し合いはとても難しくなります。「まだ治せるはず」と思っているときに「点滴を減らしましょう」と言われても、見捨てられたとしか聞こえないからです。だからこそ緩和ケアでは、病状をていねいに共有することを、何より大切にします。 「引き算の医療」は「何もしない医療」ではない ここまで読んで、「結局、治療をやめる話では」と感じた方もいるかもしれません。そうではありません。 引き算の医療は、負担になるだけのものをそぎ落として、本当に必要なケアに力を集中させることです。痛みを取る、息苦しさを和らげる、眠れるようにする——そうした症状を楽にするケアは、むしろ手厚く行います。 何かを「しない」と決めるのは、「する」と決めるより、ずっと勇気のいることです。引き算の医療は、あきらめではなく、覚悟を伴った選択なのです。 ご家族に伝えたいこと 最後に、ご家族へ。 大切な人の点滴が減ったり、抗がん剤が止まったりすると、「何もしてもらえなくなった」と不安になるのは当然です。けれど、その判断の裏には、たいてい**「これ以上つらい思いをさせたくない」という医療者の意図**があります。 もし不安なら、ぜひ主治医にこう聞いてみてください。 「この点滴(検査・治療)は、本人が楽になるためのものですか? それとも数値のためのものですか?」 この問いは、医療者にとっても大切な問い直しになります。引き算の医療は、医師だけで決めるものではなく、ご本人・ご家族と一緒に考えていくものです。 まとめ 病気を治す段階では「足し算の医療」が正しいが、最終段階では**負担をそぎ落とす「引き算の医療」**が大切になる 「全力を尽くした」という満足が、誰のためかを確かめる視点が要る 引き算の対象の例:厳しすぎる血圧・高血糖管理/数値のためだけの採血・輸血/多すぎる点滴/体力が落ちた段階での抗がん剤(いずれも一例) 多量の点滴は、むくみや呼吸の苦しさを悪化させることがある。減らすのは苦痛を増やさないため 引き算の医療は「何もしない」ではなく、必要なケアに力を集中させる、覚悟を伴った選択 迷ったら主治医に「これは本人が楽になるためのものか」と聞いてみてほしい 関連記事 緩和ケアは「あきらめ」じゃない——緩和ケア医が伝える本当の意味 緩和ケア病棟(PCU)って実際どんなところ?——中で働く医師が説明します 死亡診断書に「老衰」と書くとき、医師は何を考えているか 「治せない」と最初に伝える理由 「最期のとき」に体に起きること——家族が知っておきたい身体の変化 参考 終末期がん患者の輸液療法に関するガイドライン(2013年版)|日本緩和医療学会 Choosing Wisely|American Society of Clinical Oncology(ASCO) Weeks JC, et al. “Patients’ Expectations about Effects of Chemotherapy for Advanced Cancer.” N Engl J Med. 2012;367:1616-1625. Preston NJ, et al. “Blood transfusion for anaemia in patients with advanced cancer."(進行がん患者の貧血に対する輸血)コクラン・レビュー 医師向け媒体における終末期医療に関する連載・議論をもとに、筆者の臨床経験を加えてまとめたものです。 筆者:田舎の県庁所在地に住む医師。外科学会専門医・乳癌学会認定医。現在は乳がんの検診・診断と緩和ケアを専門に担当。医師になって20年。 ...

June 10, 2026 · 1 min

死亡診断書に「老衰」と書くとき、医師は何を考えているか

「死因は老衰です」 家族を看取ったあと、医師からこう告げられて、ほっとしたような、不思議な気持ちになった——そんな経験をお持ちの方がいるかもしれません。 「老衰って、病名なの?」 「何歳からなら老衰って書いてもらえるの?」 「肺炎で亡くなったのに、老衰じゃないの?」 死亡診断書は、ほとんどの人にとって「家族を亡くしたときに初めて目にする書類」です。そこに書かれる死因が、どんな基準で決められているのかを知る機会は、まずありません。 この記事では、緩和ケアを専門とする医師の立場から、「老衰」という死因がどのような基準で記載されるのかを、公的な資料に基づいて整理します。 老衰は、日本人の死因第3位 まず、データから見てみます。 厚生労働省の人口動態統計(2024年)によると、老衰で亡くなった方は年間約20万7,000人。全死亡の12.9%を占め、悪性新生物(がん)、心疾患に次ぐ死因第3位です。 順位 死因 割合(2024年) 1位 悪性新生物(がん) 23.9% 2位 心疾患 14.1% 3位 老衰 12.9% さらに、2024年の簡易生命表(厚生労働省)の死因確率で見ると、女性では老衰が第1位(20.75%)。女性は今後、5人に1人が老衰で亡くなる計算になります。 老衰は、戦後長らく減り続けていました。医学が進歩し、「原因となる病気」を特定できるようになったためです。それが2001年頃から再び増加に転じ、2018年には脳血管疾患を抜いて第3位になりました。 超高齢社会の進行に加えて、「無理な延命をせず、自然な最期を」という看取りの考え方が広がってきたことも、背景にあると考えられています。 公的な定義——厚生労働省のマニュアルにはこう書かれている 死亡診断書の書き方には、厚生労働省が毎年発行する「死亡診断書(死体検案書)記入マニュアル」という公式の手引きがあります。 最新の令和8年度版マニュアルには、老衰についてこう書かれています。 死因としての「老衰」は、高齢者で他に記載すべき死亡の原因がない、いわゆる自然死の場合のみ用います。 ただし、老衰から他の病態を併発して死亡した場合は、医学的因果関係に従って記入することになります。 ポイントは2つです。 ①「他に記載すべき死亡の原因がない」こと 老衰は「高齢だから」書けるものではありません。がん・心不全・肺炎・脳卒中など、死因となる病気が他にないと判断できたときに、初めて使える死因です。 つまり老衰とは、**「あらゆる病気を除外した先に残る診断」**なのです。 ②「何歳から」という基準はない マニュアルには「高齢者で」とあるだけで、具体的な年齢の線引きはありません。90歳でも肺炎が死因なら肺炎と書きますし、年齢だけで自動的に老衰になることはありません。 医師は実際にどう判断しているか——3つの観点 「他に死因となる病気がない」と判断するために、医師は次のような観点で経過全体を見ています。医師向け媒体での議論や臨床現場での実感をもとに整理すると、おおむね3つにまとまります。 ① 加齢に伴う全般的な衰弱があるか 単に年齢が高いだけではなく、生命を維持する機能そのものが自然に減衰しているかを見ます。 食欲そのものの消失——飲み込みの麻痺や消化管の狭窄といった「病気のせい」ではなく、食欲自体が自然に薄れていく 活動性の低下——日中の大半を眠って過ごすようになり、外からの刺激への反応が少しずつ緩やかになっていく 自然な体重減少——がんなどの消耗性疾患がないのに、ゆっくりと体重が減っていく ② 他の病気を除外できるか 肺炎・尿路感染症・心筋梗塞・脳卒中など、死亡の直接の引き金となる急性疾患がない 高血圧や糖尿病などの持病はあっても、それが急激に悪化して死因になったとは言えない 逆に言うと、転倒による骨折から寝たきりになった場合や、明らかな誤嚥性肺炎がある場合は、たとえ超高齢の方でも、その疾患を死因(または死因に至る流れの一部)として記載するのが一般的です。 ③ 経過が「自然」であるか 数ヶ月から数年の単位で、坂道を下るように少しずつ機能が落ちていく——「枯れるように」という表現がしっくりくる、緩やかで不可逆的な経過かどうか。 急にがくっと悪くなった場合は、何か別の原因(病気)が隠れている可能性を考えます。 「誤嚥性肺炎」と「老衰」は両立する ここで、多くのご家族が疑問に思う点に触れておきます。 「最期は肺炎って言われたのに、診断書は老衰でいいの?」——その逆の疑問もあります。「ずっと弱っていく一方だったのに、死因が肺炎なの?」 実は、厚生労働省のマニュアル自身が、この例を挙げています。 (例)直接死因:誤嚥性肺炎 ← その原因:老衰 死亡診断書の死因欄は1行ではなく、「直接死因」と「その原因」を因果関係の順に書く構造になっています。老衰で全身が弱り、飲み込む力が落ちた結果として誤嚥性肺炎を起こして亡くなった場合、直接死因は誤嚥性肺炎、その大もとの原因は老衰、と両方を記載するのが正式な書き方です。 「肺炎か老衰か」の二者択一ではなく、その方の最期に至る物語の因果関係を、医学的に記述する——死亡診断書とは本来そういう書類なのです。 医学的判断の先にあるもの——家族との物語の共有 ここまでは「医学的にどう判断するか」の話でした。しかし、緩和ケアの現場で看取りに関わってきた立場から、もうひとつ大切な要素があると感じています。 それは、ご家族やケアチームとの合意形成です。 延命のための治療(胃ろうや中心静脈栄養、昇圧剤など)をどこまで行うか。自然な看取りを受け入れるか。そうした話し合いを重ねた末に迎えた最期であれば、「老衰」という死因は、ご家族にとって**「天寿を全うした」という物語の証**になります。 「病気に負けたのではなく、寿命を生ききった」 そう受け止められることは、残されたご家族の悲嘆(グリーフ)を和らげる力を持っています。死亡診断書の死因欄は、たった数文字ですが、遺された人のその後を支える言葉にもなり得るのです。 ...

June 10, 2026 · 1 min

AIに代替されない緩和ケア医——『例外の連続』という仕事の本質

「AIが発達したら、医師は必要なくなるのか」 この問いを、医療者なら一度は考えたことがあるでしょう。答えは単純ではありませんが、腫瘍内科医・緩和ケア医という立場から考えると、少し違う景色が見えてきます。 筆者は地方病院で乳がんの診断と緩和ケアを担当しています。日々の業務でも生成AIを活用し始めている一人として、「代替されるもの」と「代替されないもの」が少しずつ見えてきた気がします。 AIが得意なこと——正直に認める まずAIが得意なことを認めるところから始めましょう。 標準治療の提示:ガイドラインに基づくレジメン選択・薬剤情報の整理 有害事象の予測:蓄積されたデータから副作用リスクを推定 画像・病理の補助診断:パターン認識における高い精度 文書業務:サマリー作成・退院時書類・紹介状の下書き 情報収集:最新の臨床試験・論文のまとめ 実際、こうした作業の一部をAIに任せると、かなりの時間を節約できます。 「AIに仕事を奪われる」というより、「AIが雑務を引き受けてくれる」というイメージが近い。その分、本来の仕事——患者と向き合うこと——に時間が使えます。 AIが苦手なこと——「正解が定義しきれない問い」 では、AIが苦手なこととは何か。 一言でいえば、**「正解が定義しきれない問い」**です。 AIが得意 AIが苦手 ガイドラインに則った判断 ガイドライン逸脱症例への対応 統計的な平均値の提示 目の前の患者の個別性への対応 テキスト・画像の処理 非言語コミュニケーション 一貫したアルゴリズムの実行 価値観が異なる人々の調整 標準的な乳がんの術後ホルモン療法を選択する場面なら、AIは非常に有能です。ガイドラインと患者背景を照合して、妥当な選択肢を提示することができる。 しかし、「高齢で認知機能が低下しつつある患者さんに、積極的な化学療法を続けるべきか」という問いはどうでしょう。 患者本人の以前の意思表示 家族の意向と相互のずれ 現在の苦痛の程度と予後の予測 主治医との長年の関係性 これらを総合して「その人にとっての正解」を探すのは、アルゴリズムでは処理できません。正解そのものが、その人の価値観によって変わるからです。 緩和ケアは「例外の連続」 標準治療のフェーズでも個別性は重要ですが、緩和ケアに移行すると、その個別性はさらに際立ちます。 緩和ケアとは、病気を治すのではなく、苦痛を和らげ、その人らしく生きることを支える医療です。 このフェーズで遭遇する問いは、ほぼ全てが「例外」です。 「痛み止めの量は十分なのに、苦しそうな表情が消えない。何が起きているのか」 「余命をどのタイミングで、誰が、どのように伝えるか」 「患者さんは自宅に帰りたいと言っている。しかし家族は病院での看取りを希望している」 「意思決定ができない状態になった患者さんに、何が最善か」 これらは全て、「教科書の正解」が存在しない問いです。蓄積されたエビデンスが参考になることはありますが、目の前の患者さんが生きてきた文脈は、過去のデータには存在しません。 緩和ケアは、正解のない問いに繰り返し向き合う仕事です。だからこそ「例外の連続」と言えます。 「構造としてのAI」と「実存としての医師」 AIを医療に取り込むとき、陥りやすい危険があります。それは、AIに「実存」を仮託してしまうことです。 「このAIが言うなら正しいだろう」「AIが判断してくれた」——こうした姿勢は、AIを単なるツールから「責任を持つ存在」に変えてしまいます。 しかし生成AIは、アルゴリズム・統計・最適化からなる**「構造」**の存在です。苦しみも責任も持たず、患者の人生に関わりません。 一方、医師は**「実存」**として患者と向き合います。患者の苦しみを前にして動揺し、家族の悲嘆に心を痛め、診断と治療の結果に責任を負います。 EBMやガイドラインとの向き合い方も同じです。エビデンスは「構造」であり、それをどう使うかの判断と責任は医師が引き受ける。AIとの関係も、本質的には変わりません。 AIリテラシーの本質は「使いこなす能力」というよりは、AIを最後まで「ツール」として扱い続ける能力だと思います。 将来の緩和ケア医・腫瘍内科医の姿 AIが普及した未来では、腫瘍内科医・緩和ケア医は「困難な意思決定を支援する伴走者」としての性格をさらに強めていくと考えます。 治療の情報収集・副作用管理・標準的な判断支援はAIが担い、医師は: 患者・家族と時間をかけて対話する 価値観の衝突を調整する 予測不能な事態への臨床判断をする 不確実性の中で「それでも決断する」ことを支える こうした役割は、標準化できません。 地方病院の緩和ケア外来では、患者さんと長年関係を築き、「先生に診てもらいたい」という信頼のもとに成り立つ医療があります。その信頼は、AIには代替できないものです。 若手医師へのメッセージ AI時代に医師を目指す方、あるいはキャリアの転換点にいる医師に伝えたいことがあります。 ① 専門領域を確立する AIが平均的な回答を提示するなら、医師はその平均から外れた個別ケースに対応できなければなりません。専門領域の深い知識は、AIとの「分業」を成り立たせる基盤です。 ② AIを批判的に使う力を身につける 専門外の領域でも、AIを使いながら一定水準で対応できる能力が求められます。「AIが言ったから正しい」ではなく、「AIの提案を批判的に検討して判断する」力です。 ③ 患者との対話を磨く デジタル化が進む医療において、「患者の言葉を引き出す」「沈黙に耐える」「感情に寄り添う」ことは、むしろ希少な能力になっていくかもしれません。 まとめ AIは標準的な判断・文書業務・情報収集を担い、医師が本来の仕事に集中できる時間を生む 緩和ケアは「正解が定義しきれない問い」の連続——AIが最も苦手とする領域 AIは「構造」であり、責任を持つ「実存」ではない。最終的な責任を引き受けるのは医師 将来の緩和ケア医・腫瘍内科医は「困難な意思決定を支援する伴走者」へ AIリテラシーの本質は、AIを最後まで「ツール」として扱い続ける能力 「AIに仕事を奪われるかどうか」よりも、「AIと組んでより良い医療ができるか」を考える方が、ずっと建設的だと思っています。 ...

June 8, 2026 · 1 min

寝たままできる10分エクササイズ——治療中の乳がん患者さんに伝えたい運動の話

「治療中は安静にしていた方がいいですか?」 外来でよく聞かれる質問です。かつては「がん患者は休むべき」という考え方が主流でしたが、近年はまったく逆の方向に変わっています。適度な運動は、がん治療中・治療後の患者さんにとって有益であることが、日本癌治療学会のガイドラインをはじめ、国内外の研究・ガイドラインで推奨されています。 一方で、「体がしんどくて、とても運動できない」という現実もあります。 そこで今回、仰向けのまま行う10分間のエクササイズに関する研究をご紹介します。立ち上がることが難しいときでも、体を動かす選択肢があるかもしれません。 重要:運動を始める前に必ず主治医に相談してください。治療の内容・時期・体調によって、適切な運動は異なります。 がん治療中に運動する意味 「がんと運動」の関係については、この10〜20年で研究が大きく進みました。 治療中・治療後の運動が期待できること: 倦怠感(だるさ)の軽減 筋力・体力の維持 気分の改善・不安の軽減 骨密度の維持(ホルモン療法中の骨粗鬆症対策) 転倒リスクの低減 特に乳がんのホルモン療法(タモキシフェン・アロマターゼ阻害薬など)は、長期間の服用で骨密度が下がりやすく、転倒・骨折の予防という観点からも、バランス機能を保つ運動が大切です。 「寝たままできる」エクササイズの研究 2026年、東京農工大学などの研究グループが、仰臥位(仰向け)で行う10分間のエクササイズプログラムの効果を調べた研究をPLOS ONEに発表しました。 プログラムの特徴 姿勢:仰向けで行うため、立位保持が難しい方でも実施可能 時間:1回10分 頻度:起床時に毎日(2週間のプログラム) 内容:腹部の感覚刺激・体幹の安定・下肢の協調動作・足指の機能を組み合わせた動き 負荷:低負荷。筋肉を大きく鍛えるのではなく、**神経と筋肉の連携(神経筋適応)**を促す設計 研究結果 2週間後に測定したところ、次の項目で有意な改善が見られました。 改善した指標 改善しなかった指標 柔軟性 握力 敏捷性(素早い動き) 跳躍力 静的立位バランス — 柔軟性・敏捷性・バランスという、日常生活に直結する機能が改善した一方、筋力(握力・跳躍)への変化はありませんでした。 これは、このエクササイズが「筋肥大(筋肉を増やす)」を目的としたものではなく、神経と筋肉の連携を整えることで機能改善をもたらすためと考えられています。 がん患者さんへの応用 この研究は一般成人を対象としたものですが、いくつかの点でがん患者さんにも参考になる可能性があります。 仰向けで行うことのメリット: 化学療法後の倦怠感が強い日でも、布団の上で行える 立位保持が難しいときでも実施可能 転倒リスクがない バランス機能の改善が特に重要な方: アロマターゼ阻害薬(AI)服用中の方(骨粗鬆症・転倒リスク) 末梢神経障害(しびれ)がある方(化学療法の副作用) 体力が低下して通常の運動が難しい方 始める前に確認すること どんな運動でも、始める前に主治医・理学療法士への相談が必要です。特に以下の状況では、無理に行わないでください。 骨転移がある:骨に負担がかかる動作は骨折のリスクがあります 血小板が低い:出血しやすい状態での運動は注意が必要です 発熱・感染症がある:免疫が低下している時期は無理しない 手術直後・放射線治療の急性期:主治医の指示に従う まとめ がん治療中の運動は「休んでいた方がよい」ではなく、適度に動くことが推奨される方向に変わってきている 仰向けで行う10分エクササイズで、柔軟性・敏捷性・バランスが改善するという研究がある 低負荷・仰臥位のため、体力が低下した状態でも取り組みやすい 骨転移・神経障害・術後などの状況では必ず主治医に相談してから 「動けない」と「動かない」は違います。体調と相談しながら、できる範囲で体を動かす習慣を続けていきましょう。 関連記事 乳がんと妊娠・授乳——妊娠中の診断、治療と妊孕性、授乳の疑問に答える 乳がんの薬物療法——ホルモン療法・抗がん剤・分子標的薬の違い 参考情報源 QLifePro / m3.com(2026年6月7日):東京農工大ほか、PLOS ONE掲載研究 国立がん研究センター がん情報サービス「乳がんの療養と社会復帰」:https://ganjoho.jp/public/cancer/breast/follow_up.html 日本癌治療学会「がんのリハビリテーション診療ガイドライン」:http://www.jsco-cpg.jp/rehabilitation/guideline/ 埼玉医科大学「がんの治療中や治療後の運動の効果に関するエビデンス表」:https://www.saitama-med.org/img/file42.pdf 筆者:田舎の県庁所在地に住む医師。外科学会専門医・乳癌学会認定医。現在は乳がんの検診・診断と緩和ケアを専門に担当。医師になって20年。 ...

June 8, 2026 · 1 min

【医師向け】医療用オピオイドの種類とスイッチング——換算表・適応・実臨床のポイント

緩和ケアに関わる機会が増えるなか、オピオイドの使い分けとスイッチングは避けて通れない臨床スキルです。 本稿では、国内で使用可能な医療用オピオイドの種類と特徴を整理し、スイッチング(オピオイドローテーション)の適応・計算方法・実臨床のポイントをまとめます。緩和ケア専従ではない乳腺外科・外科・内科の医師が、外来・病棟でオピオイドを扱う際の実務的な参考としてください。 注記:本稿は一般的な解説です。個別症例の対応は専門家へのコンサルトを組み合わせてください。 1. WHOの除痛ラダー——歴史的意義と現在の限界 WHO三段階除痛ラダー(1986年初版、2018年改訂)は、がん疼痛管理の普及に歴史的な貢献をした概念です。 ステップ 疼痛強度 薬剤 Step 1 軽度 非オピオイド(NSAIDs・アセトアミノフェン)± 鎮痛補助薬 Step 2 中等度 弱オピオイド ± 非オピオイド ± 鎮痛補助薬 Step 3 強度 強オピオイド ± 非オピオイド ± 鎮痛補助薬 しかし現在の緩和ケア臨床ではラダーの重要性は相対的に低下しています。主な批判点は以下のとおりです。 Step 2(弱オピオイド)の有用性に乏しい:コデインやトラマドールを経由する臨床的メリットは限られており、強オピオイドの少量(例:経口モルヒネ5〜10mg/日相当)から直接開始することも多い 「段階を踏む」ことが治療の遅れにつながる:中等度の痛みでも予後や状況によっては、Step 2を省略して強オピオイドを選ぶほうが患者のQOLに資する 個別化の時代に馴染まない:腎機能・肝機能・神経障害性疼痛の有無・予後など個別因子のほうが薬剤選択に大きく影響する 実臨床の指針:ラダーを「概念の地図」として使いながらも、実際の薬剤選択は疼痛の強さ・性状・患者の全身状態・予後・副作用リスクを総合して個別に判断する。Step 2は必須の通過点ではない。 2. オピオイドの種類と特徴 ■ 弱オピオイド(Step 2) コデイン(リン酸コデイン) 作用機序:体内でモルヒネに変換されて作用(プロドラッグ) 換算:経口コデイン 180mg ≈ 経口モルヒネ 30mg(換算比 6:1) 特徴:咳嗽抑制作用も持つ。CYP2D6の代謝多型により効果に個人差が大きい 注意:CYP2D6の超高代謝型(UM型)では過剰なモルヒネ変換→毒性リスク。腎機能障害では活性代謝物蓄積 トラマドール(トラマール、ワントラム他) 作用機序:μオピオイド受容体への弱い作動作用 + セロトニン・ノルエピネフリン再取り込み阻害(SNRI様) 換算:経口トラマドール 100〜150mg ≈ 経口モルヒネ 10〜20mg(個人差が大きく換算は参考値) 特徴:麻薬指定なし。神経障害性疼痛にも有効成分を持つ 注意:SSRIやSNRIとの併用でセロトニン症候群リスク。痙攣閾値低下。腎機能障害では減量 ■ 強オピオイド(Step 3) モルヒネ(MSコンチン、モルペス、アンペック坐剤他) 換算基準薬:経口モルヒネを基準(1.0倍)として他剤を換算する 剤形:経口徐放錠・速放散・坐剤・注射 特徴:最も歴史が長く、WHO推奨の標準薬。腸管蠕動抑制作用が強い 注意:活性代謝物(M6G)が腎排泄。腎機能障害(eGFR<30)では蓄積→過剰鎮静・呼吸抑制。腎機能低下例では他剤へのスイッチングを検討 呼吸困難への適応:少量モルヒネは呼吸困難に対するエビデンスが最も強い オキシコドン(オキシコンチン、オキノーム他) 換算:経口オキシコドン 20mg ≈ 経口モルヒネ 30mg(換算比 2:3) 剤形:経口徐放錠・速放散・注射 特徴:モルヒネより悪心・嘔吐がやや少ないとされる(個人差あり) 注意:CYP3A4・CYP2D6代謝。肝機能障害では血中濃度上昇。活性代謝物(オキシモルフォン)は腎排泄 フェンタニル(デュロテップMTパッチ、ワンデュロパッチ、フェントス他) 換算:経口モルヒネ 30mg/日 ≈ フェンタニル貼付剤 12.5μg/h(0.3mg/日) ワンデュロパッチ1mg ≈ 経口モルヒネ 60mg/日相当 デュロテップMTパッチ2.1mg(25μg/h)≈ 経口モルヒネ 60mg/日相当 フェンタニル貼付剤 放出速度 経口モルヒネ換算/日 ワンデュロパッチ 0.5mg 約6.25μg/h 約15mg ワンデュロパッチ 1mg 約12.5μg/h 約30mg ワンデュロパッチ 2mg 約25μg/h 約60mg ワンデュロパッチ 4mg 約50μg/h 約120mg ワンデュロパッチ 6mg 約75μg/h 約180mg ワンデュロパッチ 8mg 約100μg/h 約240mg 特徴:貼付剤が主流。内服困難例・悪心が強い例に有利。腎機能障害でも比較的安全(腎排泄の活性代謝物が少ない) 注意:発熱・電気毛布・カイロ等で吸収増加→過量リスク。貼付部位の皮膚状態に注意。速放性の口腔粘膜吸収製剤(フェントス等)はオピオイド既使用者のレスキューに限定 ヒドロモルフォン(ナルサス、ナルラピド) 換算:経口ヒドロモルフォン 6mg ≈ 経口モルヒネ 30mg(換算比 1:5) 剤形:経口徐放錠(ナルサス)・速放錠(ナルラピド)・注射 特徴:2017年に国内承認。モルヒネより高力価(5〜7倍)で少量での投与が可能。腎機能障害でも比較的安全 注意:国内の使用歴が他剤より短く、臨床的経験の蓄積がやや少ない タペンタドール(タペンタ) 換算:タペンタドール 100mg ≈ 経口モルヒネ 30〜40mg(換算比は確立されておらず注意が必要) 剤形:経口徐放錠のみ(注射なし) 作用機序:μオピオイド受容体作動 + ノルエピネフリン再取り込み阻害(MOR-NRI) 特徴:神経障害性疼痛を合併した体性痛・内臓痛に期待。悪心・便秘がやや少ないとされる 注意:経口製剤のみ(内服不可能な場合は使用不可)。SSRIとの併用注意 3. オピオイドの経口換算表(経口モルヒネ基準) 薬剤 経口換算比(対経口モルヒネ) 経口モルヒネ30mg相当量 経口モルヒネ 1.0 30mg 経口コデイン 1/6(0.167) 180mg 経口トラマドール 1/5〜1/10(参考値) 150〜300mg(参考値) 経口オキシコドン 1.5 20mg 経口ヒドロモルフォン 5 6mg 経口タペンタドール 不確実(約0.75〜1.0) 約30〜40mg(参考値) フェンタニル貼付剤 — 12.5μg/h(ワンデュロ1mg) 投与経路変換(モルヒネ基準): ...

June 5, 2026 · 3 min

救急車を呼ぶと心臓マッサージが始まります——望まない蘇生を避けるために知っておくこと

「最期は、穏やかに迎えさせてあげたい」——人生の最終段階にあるご家族について、そう願う方は少なくありません。 ところが、実際の場面では、その願いとは正反対のことが起きてしまうことがあります。容態が急変したとき、ご家族が動転して救急車を呼んだ結果、本人が望んでいなかった心臓マッサージ(胸骨圧迫)が行われてしまう——というケースです。 この記事では、緩和ケアに携わる医師の立場から、 なぜ「救急車を呼ぶ」と蘇生が始まるのか 望まない蘇生を避けるために、何を準備すればよいのか を、できるだけ分かりやすく整理します。知っているかどうかで、最期のかたちが大きく変わる大切な内容です。 1. 119番通報をすると、何が始まるのか まず知っておいていただきたい大前提があります。 救急隊は、通報を受けた時点では「救命を望んでいる人」として、全力で救命にあたります。 これは全国共通のルールです。救急隊が現場に到着して心肺停止を確認したら、原則として直ちに心臓マッサージ(胸骨圧迫)を開始します。 つまり、119番に電話をかけた時点で、救命のプロセスが動き出すということです。「呼んだけれど、やっぱり何もしないでほしい」は、その場の口頭ではすぐには通りません。 2. 「蘇生を中止する仕組み」は広がっているが、限界がある 近年、各地の消防本部や救急医療協議会で、「本人が望まない場合は心肺蘇生を中止できる」仕組みが整えられつつあります。全国の多くの地域で、こうした運用が始まっています。 ただし、この仕組みには重要な条件と順序があります。おおむね共通しているのは次の流れです。 ご家族が「本人は蘇生を望んでいない」と救急隊に伝える 救急隊が**「かかりつけ医(主治医)の指示書」**の提示を求める 救急隊が主治医に連絡し、中止の指示を確認する 指示が確認でき、家族の同意があって初めて中止できる ここで決定的に重要なのは—— ②③のプロセスが完了するまでは、心臓マッサージは続けられる ということです。つまり、たとえ蘇生中止の仕組みがある地域でも、「主治医に連絡がつき、中止の指示が出るまでの間」は胸骨圧迫が行われます。主治医に連絡がつかなければ、蘇生を続けたまま病院へ搬送されます。 → 「一度も胸骨圧迫をされたくない」という願いは、この仕組みだけでは叶えられないのです。 3. だから「どこまで望まないか」で準備が変わる ここが、この記事で最もお伝えしたいポイントです。望まないレベルによって、必要な準備がまったく異なります。 望まないレベル 必要な体制 急変時の動き 胸骨圧迫すら、一切してほしくない 訪問診療+訪問看護による在宅での看取り体制(または施設の看取り体制) 救急車を呼ばない。かかりつけの訪問診療医・訪問看護に連絡する 万一救急要請しても、蘇生は止めてほしい **「心肺蘇生に関する医師の指示書」**を本人が用意しておく+主治医の連絡先を明記 119後、いったん蘇生が始まる→指示書提示→主治医連絡→中止 ポイント①:一切望まないなら「救急車を呼ばない」体制 胸骨圧迫を一度もされたくないのであれば、そもそも119番を呼ばないことが唯一の方法です。そのためには、急変しても自宅(または施設)で対応できる体制——具体的には訪問診療医と、24時間対応の訪問看護——を、元気なうちから整えておく必要があります。 外来通院だけでは、夜間や急変時に「呼べる相手」が救急車しかなくなりがちです。「穏やかな最期」を本気で望むなら、在宅医療への移行を早めに検討することが現実的な答えになります。 ポイント②:万一に備えるなら「書面」を用意 在宅看取りを選んでいても、あるいは外来通院中でも、**「心肺蘇生に関する医師の指示書」**を本人が持っておくと、万一救急要請してしまった場合に蘇生を止められる可能性が高まります。 このとき極めて重要なのが、指示書に書く**主治医の「時間外の連絡先」**です。先述のとおり、救急隊は主治医に連絡が取れなければ蘇生を継続します。夜間・休日でもつながる連絡先が書かれていてこそ、この書面は機能します。 4. 最大の落とし穴——夜中に、家族が反射的に119してしまう 在宅での看取りを家族で決めていても、現場では繰り返しこういうことが起きます。 夜中に呼吸が止まったのを見て、ご家族が動転し、反射的に救急車を呼んでしまう 頭では「穏やかに見送る」と決めていても、いざその瞬間が来ると、人は冷静ではいられません。これは責められることではなく、準備でしか防げないことです。 家族で備えておくこと 急変時はまず「訪問診療医・訪問看護」に電話すると全員で共有しておく その連絡先を、電話のそば・冷蔵庫など目立つ場所に大きく貼っておく 訪問看護が24時間対応であることを確認しておく 「救急車を呼ぶ=心臓マッサージが始まる」ことを、家族全員が理解しておく この準備があるかないかで、最期のかたちは大きく変わります。 5. すべての出発点は「話し合い(ACP・人生会議)」 ここまでの準備は、すべて本人と家族、医療者が、前もって話し合っておくことから始まります。これを ACP(アドバンス・ケア・プランニング/愛称「人生会議」) と呼びます。 本人がどこで、どのように最期を迎えたいか どこまでの医療を望み、どこからは望まないか 急変したとき、誰に連絡するか ——こうしたことを、元気なうちに、繰り返し話し合っておく。そして必要に応じて書面に残しておく。これが、望むかたちの最期を実現するための、いちばん確実な備えです。 「縁起でもない」と先延ばしにされがちですが、話し合っていなかったために、本人の望まない蘇生が行われてしまうことのほうが、ずっとつらい結果を生みます。 6. まとめ ポイント 内容 119番通報の意味 救急隊は救命前提で動く。心肺停止なら直ちに胸骨圧迫が始まる 蘇生中止の仕組み 各地で広がるが、主治医に連絡がつき中止指示が出るまで蘇生は継続 一切望まないなら 救急車を呼ばない=在宅/施設の看取り体制(訪問診療+24時間訪問看護) 万一に備えるなら 医師の指示書+主治医の時間外連絡先を用意 最大の落とし穴 夜間に家族が反射的に119。連絡先掲示と家族教育で防ぐ 出発点 ACP(人生会議)——元気なうちに話し合い、書面に残す 「最期は穏やかに」という願いは、ただ願うだけでは叶いません。仕組みを知り、体制を整え、家族で共有しておくこと——その準備があって初めて実現します。 ...

June 2, 2026 · 1 min

「治せない」と最初にお伝えする理由——転移・再発乳がんと向き合うために

転移や再発の診断を受けたとき、患者さんとご家族にとって最もつらい瞬間のひとつが、**「これからどう生きていけばいいのか」**を医師と一緒に話し合う時間だと思います。 近年、乳がんの薬物療法は目覚ましく進歩し、転移・再発であっても5年・10年と生活を続ける方が増えています。一方で、新しい薬は副作用も費用も大きく、「治療をどこまでするか」「どこで折り合いをつけるか」の判断は、以前より複雑になりました。 そのような中で、最初に「この病気は治すことが難しい」とお伝えすることを、私は大切にしています。一見冷たく聞こえる言葉かもしれませんが、これには明確な理由があります。 1. なぜ「治せない」と最初に伝えるのか 転移・再発の乳がんは、現在の医療では根治(病気を完全になくすこと)を目標にできないことがほとんどです。一方、「病気を長く抑えながら、できる限り良い生活を送る」ことは十分に目標にできる段階に来ています。 このふたつの目標は、似ているようでまったく違います。 目標 治療の組み立て方 病気を治す 副作用や生活の制限が大きくても、最大限の治療を選ぶ 病気と付き合いながら生きる 効果と副作用・費用・生活への影響のバランスを毎回考える 最初に「治せない」をお伝えしないままだと、患者さんもご家族も「次の治療できっと治る」という期待を持ち続けてしまいます。その期待は、選ぶべき治療の方向性を見えなくしてしまうことがあります。 ショックの大きい言葉であることは、十分に理解しています。それでも最初に共有することで、患者さんご自身が「何のために治療するのか」を主役として考えられるようになる——そう信じてお伝えしています。 2. 「治療すること」自体を目的にしない 治療がうまくいかないとき、患者さんやご家族から、 「仕事を辞めて治療に専念します」 「家のことは全部後回しにして、治療を頑張ります」 といったお話をうかがうことがあります。お気持ちは痛いほど分かります。一方で、医師としては立ち止まってこう問い返すこともあります。 「治療は何のためにするのでしょうか? その先に、どんな生活を送りたいですか?」 治療は手段であって、目的ではありません。仕事・家族・趣味・好きな時間——そうしたものを続けるための治療です。「治療のために生活を犠牲にする」のではなく、「生活を守るために治療を選ぶ」順序が、転移・再発の段階では特に大切になります。 3. 「薬を使わない」も選択肢のひとつ 意外に思われるかもしれませんが、転移・再発乳がんの治療の選択肢には、**「薬を積極的には使わない」**という選び方もあります。 たとえば、 内分泌療法に加えて分子標的薬(CDK4/6阻害薬など)を併用する治療 内分泌療法だけで進める治療 薬での治療は控えめにして、症状を和らげる治療(緩和治療)を中心にする選択 これらは、どれかが「正しくて」どれかが「間違っている」わけではありません。 期待される効果の大きさ 副作用の負担 費用(高額療養費を使っても、月数万円〜の自己負担になることが多い) 仕事・介護・家庭の事情 ご本人の価値観 これらを総合して、ご本人とご家族と医師が一緒に決めるものです。 ⚠️ ここで強調したいのは、「薬を控えめにする」=「治療をあきらめる」では決してない、ということです。痛み・呼吸の苦しさ・倦怠感などのつらい症状を和らげる治療=緩和ケアは、最後まで積極的に続けます。「薬で病気を叩く治療」を弱めても、「症状で苦しまないための治療」は強く続けられる——ここはぜひ知っておいてほしいところです。 4. 進歩する治療と「選びにくさ」 ここ数年、乳がんの薬物療法は大きく動いています。 HER2陽性:1990年代にトラスツズマブ(ハーセプチン)が登場して以来、このタイプの乳がんは「最も予後の悪いタイプ」から「適切な治療で長く付き合えるタイプ」へと大きく変わりました。近年はさらにT-DXd(トラスツズマブ デルクステカン)が加わり、病気を感じずに過ごせる時間を延ばす方向で進歩が続いています ホルモン受容体陽性:CDK4/6阻害薬が標準化し、PIK3CA・ESR1などの遺伝子変異に応じた治療薬(イムルネストラント等、2025年12月に新規承認)も増加 トリプルネガティブ:免疫チェックポイント阻害薬の周術期使用が標準化 選択肢が増えるのは素晴らしいことですが、**「最適な順番で使うにはどうしたらいいか」**の答えは、まだ研究の途上にあります。専門の医師の間でも意見が分かれる場面が増えています。 だからこそ、患者さん・ご家族との対話の中で、 推奨される標準治療はこれです ただし、他にこういう選択肢も考えられます それぞれの効果・副作用・費用はこうです あなたの生活・お仕事・ご家族の状況も踏まえて、一緒に考えましょう ——という丁寧な話し合いが、ますます重要になっていると感じます。 5. 患者さん・ご家族にお願いしたいこと 最後に、これから治療と向き合う方へのお願いです。 ① 「治してほしい」気持ちと「良く生きたい」気持ちの両方を持っていてください どちらも自然な気持ちです。両方を医師に伝えてください。隠す必要はありません。 ② 治療の「目的」を医師と共有してください 「孫の卒業まで元気でいたい」「仕事を続けたい」「旅行に行きたい」——そういう具体的な希望が、治療選択を考えるうえで大きな手がかりになります。 ③ セカンドオピニオンは遠慮しないでください 治療が複雑な時代だからこそ、別の医師の意見を聞くことは自然で当然の権利です。主治医も嫌がりません。 (参考:セカンドオピニオンの活用について) ④ 「もう治療をしたくない」と思ったら、それも伝えてください それは弱さではなく、ひとつの意思決定です。緩和ケアで支える方法を一緒に考えます。 ...

May 27, 2026 · 1 min

がんで「食べられない」は意志の問題ではない——悪液質という病態

「もっと食べなきゃ元気にならない」「食べる気がしないのはわかるけど…」——がん患者さんとご家族の間で、食事をめぐるすれ違いが生まれることは少なくありません。 体重が落ち、筋肉が減り、食欲がわかない。家族が必死に食事を勧めても、本人にはどうしても食べられない理由がある——それが「悪液質(あくえきしつ)」という病態です。 この記事では、がん悪液質とは何か、なぜ起きるのか、そして患者さんとご家族がどう向き合うかを、緩和ケア医の立場からお伝えします。 1. 悪液質とは——「食べないから痩せる」ではない 体重が減る原因として、普通はこの2つが思い浮かびます。 食事の量が足りない 消費カロリーが多い しかし、がん悪液質はそのどちらでもありません。 **悪液質の本質は「代謝の異常」**です。 がん細胞が放出する炎症性物質が全身に作用し、体の代謝を根本から変えてしまいます。その結果、十分に食事をとっても栄養が筋肉の維持に使われず、体重は落ち続けます。 食べられないことを本人のせいにしないでほしい——これがこの記事でまず伝えたいことです。 2. 悪液質の3つのステージ がん悪液質は段階的に進行します。国際的なコンセンサスでは以下の3段階に分けられています。 ステージ 状態 体重変化の目安 前悪液質 食欲低下・代謝変化が始まる 体重減少5%未満 悪液質 筋肉量の明らかな低下 体重減少5%以上 不応性悪液質 積極的な介入が難しい段階 終末期に多い 前悪液質の段階であれば、食事の工夫や適度な運動によって進行を遅らせられる場合があります。「まだ食べられている」うちから対策を始めることが大切です。 3. なぜ起きるのか——がんが体を変える仕組み ① 炎症性物質(サイトカイン)の放出 がん細胞は、IL-6・TNF-α・IL-1βなどの炎症性物質を放出します。これらが筋肉の分解を促すと同時に、脳の食欲中枢にも作用して「食べたい」という欲求を抑えます。 ② 基礎代謝の上昇 がんがある体では、安静にしていても消費カロリーが増えます。食べた分が「燃えてしまう」状態で、体にエネルギーが蓄積されにくくなります。 ③ 筋肉が優先的に分解される 通常の飢餓では脂肪から先にエネルギーが使われますが、悪液質では筋肉の分解が優先されます。これが「がんで痩せる人の特徴的な痩せ方」です。 【通常の飢餓 vs 悪液質】 通常の飢餓 悪液質 ───────────── ───────────── 食事不足が原因 食事に関係なく起きる まず脂肪を消費 筋肉・脂肪を同時に消費 食べれば回復できる 食べても回復しにくい 4. 悪液質の主な症状 症状 内容 体重減少・筋力低下 歩く・立ち上がるのがつらくなる 慢性的な倦怠感 何もしていないのに疲れている感覚 食欲不振 好きなものでも食べたいと思えない むくみ 低栄養による 貧血・免疫低下 感染症にかかりやすくなる 気分の落ち込み 食べられない自分への焦りや罪悪感 とくに「食べられない自分」への焦りと罪悪感は、患者さんを精神的にも追い詰めることがあります。 5. 悪液質に対してできること 医療でできること 栄養サポート ...

May 23, 2026 · 1 min

せん妄とは——「人が変わってしまった」と感じたときに家族が知っておくこと

入院中や終末期の患者さんに、ある日突然こんな変化が起きることがあります。 「つじつまの合わないことを言い出した」 「夜中に騒いだり、点滴を抜こうとする」 「ここがどこか分からなくなっている」 「別人のようになってしまった」 ご家族は大きなショックを受け、「認知症になった」「おかしくなってしまった」と不安になります。 これは多くの場合**せん妄(せんもう)**という状態です。正しく理解すれば、家族の不安はずっと軽くなり、適切に対応できます。この記事では、せん妄について緩和ケア医の立場から解説します。 1. せん妄とは せん妄は、身体の不調が脳に影響して起こる、一時的な意識・注意・認知の障害です。 特徴 項目 内容 急に起こる 数時間〜数日で発症 症状が変動する 夜に悪化、日中は比較的しっかり(日内変動) 注意が保てない 会話が続かない、集中できない 一時的なことが多い 原因が改善すれば戻ることも → せん妄は「気の持ちよう」でも「性格が変わった」のでもなく、身体的な原因による脳の機能変化です。 頻度 入院患者の10〜30% 終末期がん患者では最大90%近くが経験 高齢者・重症ほど起こりやすい 参考情報源:日本サイコオンコロジー学会・日本がんサポーティブケア学会「がん患者におけるせん妄ガイドライン2022年版」:https://jpos-society.org/pdf/gl/2023delirium/all_2023-guideline-delirium.pdf 2. せん妄と認知症の違い 家族が最も混同しやすいのが認知症との違いです。 項目 せん妄 認知症 発症 急(数時間〜数日) ゆるやか(年単位) 経過 変動する(日内変動) ゆっくり進行 意識 混濁する(ぼんやり) 通常は清明 可逆性 改善することがある 基本的に不可逆 原因 身体的要因(後述) 脳の変性 → **せん妄は「治る可能性がある」**のが最大の違い。「急におかしくなった」なら、まずせん妄を疑います。 ※認知症の方がせん妄を併発することもあります。 3. なぜせん妄が起きるのか せん妄には必ず**身体的な原因(誘因)**があります。 カテゴリ 具体例 薬剤 オピオイド、ステロイド、睡眠薬、抗コリン薬など 身体の異常 感染症、脱水、電解質異常、低酸素、肝・腎機能低下 がんの進行 脳転移、高カルシウム血症 環境 入院による環境変化、睡眠不足、不動 苦痛 痛み、便秘、尿閉 → 複数の要因が重なって起こることが多い。**治療可能な原因(脱水・感染・薬剤)**なら、それを改善することでせん妄も良くなることがあります。 ...

May 21, 2026 · 2 min