「年金は繰下げると増える。だから遅くもらうほど得」——最近よく聞く話です。たしかに、受け取り開始を遅らせると年金の額面は確実に増えます。でも、「額面が増えること」と「手取りが増えること」「家計として得をすること」は、実は別の話です。
この記事では、繰下げ受給の仕組みと、あまり語られない3つの注意点——手取りの目減り・加給年金のもらいそびれ・損益分岐点——を整理します。「繰下げはやめておけ」という話ではありません。仕組みを正しく知ったうえで、自分の場合はどうかを考えるための材料です。
1. 繰下げ受給とは——70歳で+42%、75歳で+84%
老齢年金は原則65歳から受け取りますが、申出により66歳以降75歳まで受け取り開始を遅らせることができます。これが繰下げ受給です。
増額率は1か月あたり0.7%。遅らせた月数分だけ一生涯の年金額が増えます。
| 受け取り開始 | 増額率 | 月15万円の人なら |
|---|---|---|
| 65歳(原則) | — | 月15.0万円 |
| 70歳 | +42% | 月約21.3万円 |
| 75歳 | +84% | 月約27.6万円 |
「70歳まで待てば4割増、一生涯」——数字だけ見ると魅力的です。実際、長生きするほど繰下げは有利に働きます。ここまでは、よく紹介されるとおりです。
問題は、この「+42%」が額面の話だということです。
2. 落とし穴①:手取りは額面ほど増えない
公的年金は「雑所得」として課税対象です。そして、税金だけではありません。年金額が増えると、次のものが**連動して増える(または負担区分が上がる)**可能性があります。
- 所得税・住民税
- 国民健康保険料(75歳からは後期高齢者医療の保険料)
- 介護保険料
- 医療費・介護費の自己負担割合の判定(所得が一定額を超えると、窓口負担が1割→2割→3割と上がる仕組みがあります)
日本年金機構自身が、繰下げの注意点として「医療保険・介護保険の負担や税金に影響する場合がある」ことを挙げています。
つまり、額面が42%増えても、手取りの増え方はそれより小さくなるのが普通です。増えた年金が各種の判定ラインをまたぐと、税・保険料・窓口負担が段階的に増えるためです。どのくらい目減りするかは、その人の年金額・他の所得・住んでいる自治体によって大きく変わります。
「増額率」ではなく「手取りがいくら増えるか」で考える——これが繰下げを検討するときの出発点です。
3. 落とし穴②:加給年金の「もらいそびれ」
もうひとつ、知らないと数百万円規模の差になりうるのが加給年金です。
加給年金とは、ざっくり言うと年金版の家族手当です。厚生年金に20年以上加入した人が65歳になったとき、生計を維持している65歳未満の配偶者(または18歳年度末までの子)がいると、年金に上乗せされます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 主な条件 | 厚生年金の加入期間20年以上+65歳未満の生計維持配偶者 |
| 金額 | 配偶者の場合、特別加算を含めて年約28万〜42万円(2026年度。生年月日で異なり、現役世代に近いほど上限額) |
| いつまで | 配偶者が65歳になるまで |
ここで重要なのが、日本年金機構の次のルールです。
繰下げ待機期間(年金を受け取っていない期間)中は、加給年金額を受け取ることができません。また、加給年金額は繰下げによる増額の対象になりません。
つまり、老齢厚生年金を繰下げている間、加給年金は支給されず、あとから増えて戻ってくることもありません。純粋な「もらいそびれ」です。
たとえば配偶者が5歳年下の人が、厚生年金を70歳まで繰り下げると、本来5年間受け取れたはずの加給年金——最大で200万円前後——が消えます。配偶者が年下であるほど、この影響は大きくなります。
4. 意外と知られていない:基礎年金と厚生年金は「別々に」繰下げできる
では、加給年金をもらいそびれずに繰下げの恩恵も受けたい場合はどうするか。
実は、老齢基礎年金と老齢厚生年金は、別々に繰り下げることができます。これは日本年金機構が明記している公式ルールですが、「繰下げか、しないか」の二択で語られがちで、意外と知られていません。
- 加給年金は老齢厚生年金に付くもの
- → 厚生年金は65歳から受け取って加給年金を確保し、基礎年金だけ繰り下げて増やす、という組み合わせが可能
もちろん、逆の組み合わせ(厚生だけ繰下げ)もできますし、そもそも両方65歳から受け取るのも選択肢です。「全部繰下げ」「全部65歳から」だけでなく、部品ごとに設計できると知っておくだけで、選択肢はぐっと広がります。
5. 損益分岐点と「何歳まで生きるか」
繰下げの損得を左右するもうひとつの要素が、受給期間です。
70歳まで繰り下げた場合、65歳から受け取った人に額面の累計で追いつくのは、おおむね**12年後(82歳ごろ)**です。ここまで見てきたとおり手取りベースでは増額の効果が薄まるので、実際の分岐点はもう少し後ろにずれる人が多いはずです。
一方で、厚生労働省の簡易生命表(2024年)によると、65歳時点の平均余命は男性約19.5年(約84.5歳)、女性約24.4年(約89.4歳)。平均的に生きれば分岐点を超える計算になりますが、これはあくまで平均です。
ここで大切なのは、**年金は「損得を競う金融商品」ではなく「長生きという不確実性に備える保険」**だという視点です。何歳まで生きるかは誰にも分かりません。だからこそ、「何歳で死ねば得か」の計算に深入りするより、長生きした場合に家計が破綻しない設計になっているかで考えるほうが、実りがあります。
6. どう考えるか——判断の順番
筆者も自分のライフプラン(作り方はこちらの記事に)を作る中で、年金の受け取り方を検討しました。そのとき役に立った考え方の順番は、こうです。
- 額面ではなく手取りで考える——「+42%」に飛びつかない
- 自分の加給年金の有無を確認する——厚生年金20年以上+年下の配偶者がいる人は要チェック。対象なら「厚生は65歳から・基礎だけ繰下げ」も検討
- 繰下げ中の生活費をどう賄うかを先に決める——繰下げは「その間、年金なしで暮らせる」ことが前提。就労収入や資産で賄えるかをライフプランで確認
- 正確な金額は自分の数字で——「ねんきんネット」や年金事務所で、自分の見込み額をもとに試算する
なお、ネット記事には「繰下げは意味がなかった」「繰下げこそ正解」と、どちらかに振り切った見出しが多く見られます。実際には、有利かどうかは年金額・家族構成・他の所得・健康状態で人ごとに変わります。振り切った結論ほど、自分の条件に当てはめて疑ってみてください。
まとめ
- 繰下げ受給は1か月0.7%・70歳で+42%・75歳で+84%、額面は確実に増える
- ただし税金・国民健康保険料・介護保険料・窓口負担の判定が連動するため、手取りは額面ほど増えない
- 厚生年金の繰下げ中は加給年金(年約28万〜42万円)がもらえず、増額もされない——年下の配偶者がいる人は特に注意
- 基礎年金と厚生年金は別々に繰り下げられる——「全部か、ゼロか」ではなく部品ごとに設計できる
- 年金は損得を競う商品ではなく長生きに備える保険。手取り・家族構成・生活費の見通しから、自分の場合を考える
参考情報
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筆者:田舎の県庁所在地に住む医師。外科学会専門医・乳癌学会認定医。現在は乳がんの検診・診断と緩和ケアを専門に担当。医師になって20年。 お金の勉強はリベラルアーツ大学(リベ大)を参考にしています。