「抗がん剤は、やらなくていいと思います」
主治医からそう言われたとき、ほっとするより先に、不安になる方がいます。
「手を抜かれているのではないか」 「本当は、やった方がいいのではないか」
逆に、こう感じる方もいます。
「隣の人は放射線を5回で終わったのに、私は16回もある。なぜ違うのか」
同じ乳がんという病名なのに、受ける治療の「量」が人によって違う。この違和感は、多くの方が口にされます。
実はこの背景には、ここ10年ほどのがん治療研究の、大きな方向転換があります。
がんの治療は「増やす」方向だけでなく、「減らす」方向にも進んでいる。
この記事では、乳がん診療に20年携わってきた立場から、何がすでに減らせるようになっていて、何がまだ研究段階なのかを整理します。この線引きを知っておくことが、いちばん実際の役に立つと思います。
0. 「減らす研究」という考え方
がんの治療研究には、大きく2つの方向があります。
| 目指すもの | 例 | |
|---|---|---|
| 増やす研究 | 治る人を増やす・長く生きられるようにする | 新しい薬を追加する、治療期間を延ばす |
| 減らす研究 | 同じ結果を、より少ない負担で得る | 放射線の回数を減らす、抗がん剤を省く |
長いあいだ、がん治療の進歩といえば前者でした。新しい薬が出て、上乗せされ、治療は少しずつ「厚く」なっていきました。
しかし、治る人が増えるにつれて、別の問題がはっきりしてきます。治ったあとに、その人の人生が何十年も続くということです。
抗がん剤による手足のしびれ、放射線による皮膚や心臓・肺への影響、ホルモン療法による関節の痛みやほてり、手術によるリンパ浮腫。治療が終わっても残るこれらの負担は、「治ったのだから仕方がない」で済ませられるものではありません。
そこで、こう問い直す研究が始まりました。
この治療、全員に必要なのだろうか。減らしても結果が変わらない人が、いるのではないか。
乳がんは、この「減らす研究」がもっとも進んでいる領域です。医学の世界では de-escalation(デ・エスカレーション)と呼ばれます。
1. すでに「選べる」ようになったもの
まず、現在の日本の標準的な診療のなかで、すでに選択肢として存在するものを挙げます。
放射線:回数を減らす
かつて乳房全体への放射線は、5〜6週間かけて25回前後に分けて当てるのが標準でした。現在は3週間・16回前後が標準で、条件が合えば1週間・5回という選択肢もあります。
10年間追跡した結果でも、再発率・生存率・晩期の副作用に差はありませんでした。
詳しくは早期乳がんの術後放射線、「1週間で終わる」短期治療の10年成績で解説しています。
放射線:範囲を狭める・省く
再発リスクが低いと判断される場合、乳房全体ではなくがんのあった周囲だけに当てる方法(部分照射)が選択肢になります。
さらに、高齢で、がんが小さく、ホルモン受容体陽性で、リンパ節転移がない——といった条件がそろう方では、ホルモン療法を続けることを前提に、放射線を省くという選択肢もあります。
ここは数字を正確に見ていただきたい部分です。この条件の方を10年追跡した海外の試験では、次の結果でした。
| 放射線を当てた | 放射線を省いた | |
|---|---|---|
| 10年間で同じ乳房に再発した割合 | 0.9% | 9.8% |
| 10年後に生きている割合 | 81.0% | 80.4% |
再発は約9ポイント増えます。約10倍です。しかし生存率は変わりません。再発しても、その時点で治療すれば命に影響しなかった、ということです。
この2つの数字のどちらを重く見るかは、医学が決めることではありません。「再発の可能性が上がっても通院を減らしたい」も、「1%でも再発は避けたい」も、どちらも正当な選択です。
手術:脇のリンパ節を取る範囲を減らす
かつては、脇のリンパ節に転移があれば、脇の下のリンパ節をまとめて切除する(腋窩郭清)のが標準でした。現在は、転移が少数にとどまる場合には、郭清を省いても成績が変わらないことが分かっており、省略が広く行われています。
腋窩郭清はリンパ浮腫の最大の原因です。ここを減らせたことは、患者さんの生活に直接効いた変化でした。
また、術前に抗がん剤治療を行い、脇のリンパ節の転移が完全に消えた場合には、脇への放射線を省くという判断も可能になっています。
薬:遺伝子検査で抗がん剤を省く
ホルモン受容体陽性・HER2陰性という、もっとも人数の多いタイプでは、がん組織の遺伝子を調べて、抗がん剤の上乗せ効果が期待できるかを推定する検査(多遺伝子アッセイ)が実用化しています。条件を満たせば保険で受けられます。
冒頭の「抗がん剤はやらなくていいと思います」は、手を抜いているのではなく、こうした根拠にもとづく判断であることが少なくありません。
詳しくは薬物治療はどう変わっているか——「個別化」の中身をご覧ください。
薬:抗がん剤の種類を減らす
HER2陽性というタイプでは、抗HER2薬という効果の高い薬があるぶん、併用する抗がん剤を減らせないかという研究が進んできました。
2025年に報告された大規模な比較試験では、抗がん剤を1剤減らしても効果は同等で、副作用は明確に軽くなりました。
| 抗がん剤2剤 | 抗がん剤1剤 | |
|---|---|---|
| 手術時にがんが消えていた割合 | 65.9% | 64.1% |
| 重い副作用が出た割合 | 34.6%(約3人に1人) | 20.7%(約5人に1人) |
効果の差は1.8ポイント。一方で、重い副作用は3分の1以上減っています。
2. まだ「研究段階」のもの
ここからが、この記事でいちばんお伝えしたい部分です。
学会やニュースで語られる「減らす治療」の多くは、まだ臨床試験の中でしか行われていません。期待されている、というだけの段階です。
| 話題になっているもの | 現在の位置づけ |
|---|---|
| がんが消えたら手術をしない | 試験中。標準治療ではない |
| 免疫治療を途中で終える | 試験中 |
| ホルモン療法を5年より短くする | 試験中 |
| 血液でがんの残りを調べて治療を決める(ctDNA) | 試験中・保険適用外 |
| 遺伝子スコアで治療の強さを決める | 一部は試験中。日本では保険適用外のものが多い |
たとえば「画像でがんが消えたら手術をしない」という治療は、世界中で研究されている魅力的なテーマですが、2026年7月現在、標準治療ではありません。
画像で「消えた」と判定されても実際には残っていることがある理由は、画像で消えたら、がんは消えたのかで詳しく書いています。
⚠️ より一般的な注意——新しい検査・治療技術に共通する話
こうした最新技術は、日本の保険診療では未対応のままになっていることが多いのが現実です。自由診療で受けられる施設もありますが、標準化された管理体制(検査の質・結果の解釈・その後のフォロー)が確立していない条件で行われがちです。
言いかえると、「管理体制がはっきりしないなかで、自分が実験的な対象になるリスクを十分理解したうえでの選択」になります。
判断するときは、コストだけでなく「この検査結果(治療)を踏まえて、次に何をするのか」まで医療機関側に明確な答えがあるかを必ず確認してください。
3. 「減らせる」と「あなたが減らしていい」は別の話
ここが、いちばん誤解の起きやすいところです。
de-escalationの研究は、「治療は少ない方がいい」と言っているのではありません。言っているのは、次のことです。
減らしても結果が変わらない人を、正確に見分けられるようにしよう。
つまり、減らす研究の本体は「見分ける技術」の研究です。遺伝子検査、画像、免疫の状態——これらはすべて、「この人は減らして大丈夫か」を判定するために開発されています。
ですから、
- 見分けた結果、減らせる人がいます
- 同時に、見分けた結果、しっかりやるべき人もいます
同じ研究から、両方の結論が出ます。実際、遺伝子スコアを使った研究では、治療方針が変わった人のうち、強める方向に変わった人も一定数いました。
そして重要なのは、「減らせるかどうか」の判定は、あなたのがんの性質・進み具合によって決まるということです。他の人が省けたから自分も省ける、とはなりません。
4. 患者さんの価値観が、研究の一部になってきた
もう一つ、最近の変化をお伝えしたいと思います。
2026年の日本乳癌学会でこのテーマが議論されたとき、司会の一人は患者団体の方でした。そして議論の締めくくりとして、こういう趣旨の指摘が出ています。
de-escalationで最も重要なのは、患者さん自身の価値観である。効果がやや下がっても副作用の軽さを取るかどうかは、患者さんの側でしか決められない。患者さんの好みを研究の設計そのものに組み込まなければ、この研究は成り立たない。
これは、控えめに言っても大きな変化だと思います。
「増やす研究」であれば、評価軸は比較的単純です。長く生きられるかどうか。しかし「減らす研究」では、再発が少し増えるかわりに副作用が減るという交換条件が生じます。この交換に応じるかどうかは、医学の内部には答えがありません。
治療を受ける人が何を大切にしているか——それが分からなければ、研究のゴールすら設定できない。医学の側がそう認め始めた、ということです。
5. 診察のときに聞いてみるといい、3つの質問
治療を「減らす」提案を受けたとき、あるいは自分から相談してみたいときに、役に立つ聞き方です。
-
「この省き方は、標準治療のなかの選択肢ですか。それとも臨床試験ですか」 ——この記事の1と2、どちらの話なのかがはっきりします。いちばん大事な質問です
-
「減らした場合と、しっかりやった場合で、再発の割合はどれくらい変わりますか」 ——「あまり変わりません」ではなく、できれば数字で聞いてください。「2%が3%になる」のか「2%が10%になる」のかで、判断が変わる人もいます
-
「減らすことで、具体的に何が楽になりますか」 ——通院回数か、しびれか、脱毛か、費用か。得られるものが自分にとって大きいかどうかを、自分で確かめられます
これらは主治医を試す質問ではありません。交換条件の中身をはっきりさせるための質問です。中身が見えて初めて、自分の価値観で選べるようになります。
まとめ
- がん治療の研究は「増やす」方向だけでなく、「減らす」方向にも進んでいる。乳がんはその最先端にある
- すでに選べるもの:放射線の回数短縮・範囲縮小・条件つきの省略、腋窩郭清の省略、遺伝子検査による抗がん剤の省略、抗HER2治療での抗がん剤削減
- まだ研究段階のもの:手術の省略、免疫治療の短縮、ホルモン療法の短縮、ctDNAによる判定。ニュースで見かけても、今の自分に当てはめないでください
- 減らす研究の本体は「見分ける技術」。減らせる人と、しっかりやるべき人を、同じ研究が両方見つけている
- 効果と副作用の交換条件にどう答えるかは、医学ではなく、あなたの価値観が決める
「抗がん剤はやらなくていい」と言われたときの不安は、とても自然なものです。ただ、それは見捨てられたのではなく、あなたに合わせて選ばれた結果であることが少なくありません。納得できないときは、遠慮なく理由を聞いてください。理由を説明できることが、その判断が根拠にもとづいている何よりの証拠です。
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参考情報源
- 患者さんのための乳癌診療ガイドライン2023年版——初期治療について(日本乳癌学会)
- 乳がん 治療(国立がん研究センター がん情報サービス)
- 本記事は、医師向け媒体における乳がん周術期治療のde-escalationに関する学術的な議論をもとに、公表されている臨床試験の結果と筆者の臨床経験を加えてまとめたものです
筆者:田舎の県庁所在地に住む医師。外科学会専門医・乳癌学会認定医。現在は乳がんの検診・診断と緩和ケアを専門に担当。医師になって20年。