サッカーを始めたのは5歳のときだった。

小学校のグラウンドで練習していた地域のチームに入り、気づけば40年が経った。今も地方のO-40チームで、ピッチに立ち続けている。

プロにはなれなかった。全国大会に出たこともなかった。でも40歳を超えた今、全国大会に出られるようになった。遠回りもしてきたし、一度サッカーを辞めた時期もある。それでも続けてきた40年を、少し書いてみようと思う。


千葉市のグラウンドで

7つ上の兄も同じチームにいた。だが兄が中学に進むと卒団してしまい、一緒にプレーできたことは一度もなかった。

ポジションはFW。点を取ることが好きだった。

小学4・5年生のとき、チームは千葉県大会で準優勝と3位に入った。千葉といえばサッカーどころだ。その中での入賞は、子どもながらに誇らしかった。

しかし小6の大会は途中で負けた。全日本少年サッカー大会には出られなかった。

その大会が終わった直後、ジェフ千葉(当時のジェフユナイテッド市原)のジュニアユースセレクションを受けた。同じチームの同級生も受けた。その子は合格した。私は落ちた。


中学——ポジションが下がっていった時期

地域のリーグ戦で一緒に戦っていた近くの中学校が、全国中学校サッカー大会(全中)で優勝している。私が通ったのは、別の中学だった。

FWとして入ったが、チームの最適解を探すうちにポジションがどんどん下がっていき、最終的にはセンターバックをやっていた。

千葉市のトレセン(トレーニングセンター)には参加していたが、Bチームだった。トレセンで一緒だったメンバーの中に、市立船橋高校(市船)に進んだ選手がいたと記憶している。


高校——10番と、翌日の渡米

千葉の進学校に進み、サッカー部に入った。1年生で公式戦のメンバーには入ったが、試合には出られなかった。

3年生が8月に引退すると、そこから試合に出続けた。最上級生になってから10番をもらった。

高校3年の選手権予選。8月2日か3日、ベスト16をかけた試合があった。勝った。そして翌日、交換留学生としてテキサス州へ旅立った。約1年間の留学だった。

10月にベスト16の試合があったが、私はすでにアメリカにいた。チームメイトたちがその試合を戦い、負けてしまったと後から聞いた。もし勝っていれば、次の相手は市立船橋だったらしい。


留学中もサッカーで交流

アメリカでも学校のサッカーチームに入れてもらった。

当時のアメリカはサッカー大国ではなかったが、システムはしっかりしていた。大会もあり、ヒスパニック系の上手い選手もいた。

チームに入って間もなく、監督に10番を希望した。監督が本来その番号を予定していた選手を説得してくれて、10番をもらうことができた。

大会では、ハーフラインからシュートを決めたのを覚えている。勝ち上がる中で、プロ並みに速い選手とも対戦した。その選手がプロになったかどうかは分からない。

右膝を捻挫して、しばらくリハビリになった。そのリハビリを担当してくれたのが、同じ高校生だったことに驚いた。アメフトや野球で積み上げてきたスポーツ医学の知見がサッカーにも応用されていた。当時は「そういうものか」と思っただけだったが、医師になった今振り返ると、日本よりずっと進んでいたと感じる。


医学部とサッカー部

帰国後、半年の受験勉強を経て医学部に入った。その間はサッカーをしていない。1日10時間以上勉強していた時期だ。

医学部に入ってすぐサッカー部に入った。地域リーグ、西日本医科学生体育大会(西医体)、全日本医科学生体育大会(全医体)と、毎年試合があった。

西医体での最高成績は4位。全医体への出場資格は西医体の成績順に与えられるが、上位校が辞退したおかげで出場できた大会があり、そこで3位になった。

正直に言う。医学部のサッカーは、決してレベルが高いわけではない。その環境の中で「自分より上手い」と感じたのは2人だけだった。3つ上の先輩と、全医体で対戦した元ヴェルディユース出身の選手。

それが私のサッカーの天井だった。


地域リーグと、サッカーが簡単に感じられた日々

医学部6年の8月、西医体を最後にサッカー部を引退した。同じ夏、あの先輩が所属していた社会人チームに移籍させてもらった。そのまま研修医2年間も所属し続けた。そのチームは地域のリーグに所属していた。背番号は28番。

自分より上手い選手がほとんどだった。

不思議なことに、うまい選手に囲まれると、サッカーがこんなにも簡単なのかと思わせてくれる。正確なパスが来る。動き出す前にスペースがある。混乱する前にボールが動いている。

リーグ最下位として臨んだ入れ替え戦の相手は、県リーグから昇格を狙うJリーグクラブのサブチームだった。試合には負けて、チームは県リーグへ降格した。

それでも、研修医2年間のあの日々は、年齢制限のないカテゴリーで経験した中でいちばん充実していた。


離脱、そして再び

3年目から外科の専攻医になった。手術室に入り、病棟を走り回る日々。サッカーをする時間も体力も、残らなかった。一旦、辞めることにした。

しばらくしてから、健康のために体を動かすことを勧められた。サッカーなら楽しく続けられる。以前所属していたチームに連絡すると、再登録を受け入れてもらえた。


40歳からの全国大会

39歳でシニアサッカーのO-40カテゴリーに登録した。40歳以上の選手で編成されるチームで、県リーグから地方予選を経てJFA主催の全国大会がある。

マスターズ(35歳以上)の大会にも並行して参加し、全国大会も経験した。チームへの貢献はわずかだったが。

今のチームで全国大会はこれまでに3回出場した。背番号は11番。ポジションはサイドバック。

なぜサイドバックかというと、他のポジションは自分より上手い人がいるから、出られるポジションがそこしか残っていないのだ。

内田篤人選手や駒野友一選手、ダニ・アウベスやマルセロのような、試合を作れるサイドバックの選手たちを見ていると、このポジションにも素敵な景色があることは分かる。それでも、やっぱり中央の選手に戻りたいと思うことがある。


40年続けてきて思うこと

ジェフのセレクションに落ちた。地域リーグでは降格した。全国大会で活躍できたわけでもない。

それでも、サッカーをやめなかった。

医学部の6年間、研修医の2年間、外科専攻医として多忙だった時期、体調を崩して立ち止まった時期——それぞれの時代にサッカーがあった。あるときは成長を感じる場所として、あるときは心の支えとして。

40年経った今、全国大会のピッチに立てている。プロにはなれなかったが、それでいいと思っている。

現役でサッカーをしている医師がいる、ということを知るきっかけになれば嬉しい。


筆者:田舎の県庁所在地に住む医師。外科学会専門医・乳癌学会認定医。現在は乳がんの検診・診断と緩和ケアを専門に担当。医師になって20年。5歳からサッカーを続けて今もO-40の全国大会に出場中。