二十年近く前、まだ学生だった頃の話です。卒業旅行や部活の遠征などで、毎月の仕送りとは別に、両親にまとまった額を工面してもらったことがありました。

その数年後、父から連絡が来ました。要約すると、「あのとき渡したお金を返してほしい」という内容でした。

正直に書きます。そのとき私が思ったのは、**「父がお金に困っているわけがないだろうに」**でした。

今になって振り返ると、その少し前に父は退職しています。そして不動産のローンを抱えていました。あのメールは、おそらく請求ではなく、家計への不安が形を変えて出てきたものだったのだと思います。

父は今年、亡くなりました。もう本人に確かめることはできません。

この記事は、その後悔から書いています。ただし「親孝行をしましょう」という話ではありません。親からのお金のサインは、見逃しやすい——そのことと、元気なうちに確認しておける具体的なことを整理します。


親のSOSは、「相談」の形をしていない

もし父が「退職後の生活費が足りない。ローンの返済が重い。相談に乗ってほしい」と書いてきていたら、当時の私でも何かはできたかもしれません。

でも、実際に届いた言葉は「あのお金を返してほしい」でした。

これは私の父だけの話ではないと思います。お金の不安は、親から子へストレートには伝わりません。 次のような形に変わって出てきます。

  • 昔の貸し借りを持ち出す
  • 「保険を見直そうと思う」と唐突に言い出す
  • 家の修繕や車の買い替えを、やたらと先延ばしにする
  • 「お前たちに迷惑はかけないから」と、聞いてもいないのに宣言する

親の世代には、子にお金の話をすることへの強い抵抗があります。「親としての面子」もあれば、「心配をかけたくない」という気持ちもあります。だから、遠回りな形でしか出てきません。

問題は、受け取る側にお金の知識がないと、それがサインだと分からないことです。わがままにも、不機嫌にも見えてしまう。私はそうでした。


退職直後の家計に、何が起きているのか

では、退職した親の家計では実際に何が起きているのか。まずは全体像から見ます。

総務省の家計調査(2025年平均)によると、65歳以上の夫婦のみの無職世帯の1か月の収支はこうなっています。

項目 金額(月額)
実収入 254,395円
可処分所得(手取り) 221,544円
消費支出 263,979円
差額(不足分) 約42,000円

平均消費性向は119.2%。つまり手取り100に対して119を使っている状態が、平均的な姿です。年間にすると約51万円の不足になります。

ひとり暮らしの高齢世帯でも構図は同じで、可処分所得118,465円に対し消費支出148,445円、月およそ3万円の不足です。

ここで大事なのは、「平均でも足りていない」という点です。これは特別に浪費している家庭の話ではありません。貯蓄を取り崩しながら暮らすのが、退職後の標準的な状態なのです。

収入は階段状に落ちるのに、支出はゆっくりしか落ちない

退職すると、給与収入はある月を境にゼロになります。一方、年金の受給開始は原則65歳です(日本年金機構)。60歳や62歳で退職した場合、年金が始まるまでの数年間、収入の空白が生まれます。

対して支出はどうか。食費や光熱費はすぐには変わりません。保険料も、通信費も、自動では下がりません。収入は崖のように落ち、支出はなだらかにしか落ちない——この時間差が、退職直後がいちばん不安になる理由です。

繰上げ受給を選べば早く受け取れますが、その分は減額されます。逆に繰下げれば増額されますが(最大84%)、増えるのは額面であって手取りとは限りません。この話は別記事で詳しく書きました。

年金は「繰下げれば得」とは限らない——増額の裏で増える税金と保険料


そして、ローンだけが減らない

家計調査の数字には表れないものがあります。借入の返済です。

住宅ローンにせよ、投資用不動産のローンにせよ、返済計画は現役時代の収入を前提に組まれています。ところが返済そのものは、退職しても1円も軽くなりません。

  • 収入は減る
  • 返済額は変わらない
  • 完済はまだ何年も先

この3つが重なった瞬間に、家計は一気に苦しくなります。私の父の場合も、おそらくこの構図でした。

不動産を持っている場合はもう一段複雑です。売れば返済は終わりますが、売却額がローン残債を下回れば、差額は手元から出すことになります。「売って終わりにする」という出口が、必ずしも使えるとは限らないのです。

親が現役の頃に組んだ借入は、子から見えません。残債がいくらで、完済が何歳になるのか——これを知らないままだと、親の不安の正体は最後まで分かりません。


知らなければ、翻訳もできない

ここまで書いたことは、今の私には分かります。しかし当時の私には、ひとつも分かりませんでした。

年金を何歳からもらうように決めたのかも、退職後の家計が平均で赤字だということも、ローンが老後にどう効いてくるのかも、知りませんでした。だから、父の言葉を翻訳できなかったのです。

親のサインを受け取れるかどうかは、親の伝え方の問題ではなく、子の側の知識の問題だった。私はそう考えています。

お金の勉強というと、自分の資産を増やすためのものだと思われがちです。でも実際には、家族の言葉を理解するための語学のような側面があります。


親が元気なうちに、確認しておける3つのこと

では具体的に何を聞けばいいのか。私が「あのとき知っていればよかった」と思う3点を挙げます。

その前に——「いくら持っているか」は聞かない

先に、やらないほうがいいことから書きます。貯蓄額や資産額を、最初に尋ねないでください。

親にとっていちばん答えにくい質問であり、しかも聞けなくても困りません。ここから挙げる3つが分かれば、家計が回るかどうかの見当はつきます。

順序を間違えて警戒されると、その後の会話がすべて閉じてしまいます。一度「詮索された」と受け取られると、次に何を聞いても身構えられる。取り返しがつきにくいのはこちらのほうです。

そのうえで、答えやすいものから順に聞いていきます。

① 年金が「いつから」「いくら」始まるか

いちばん答えやすく、いちばん重要です。しかも親自身の手元に、答えが書かれた紙があります

ねんきん定期便は毎年、誕生月に届きます。ここで知っておきたいのは、記載内容が年齢で変わることです。

対象 記載される内容
50歳未満 これまでの加入実績に応じた年金額
50歳以上 老齢年金の種類と見込額

つまり50歳以上の親のねんきん定期便には、将来の見込額が書いてあるということです。「いくらもらえるか分からない」と親が言う場合、多くは金額が不明なのではなく、書類を見ていないだけです。

「毎年届くハガキ、あれ見てる?」から入るのが、いちばん角が立ちません。

② 借入の残債と、完済が「何歳」になるか

ここは聞きにくい部分ですが、金額ではなく年齢で聞くと、ぐっと聞きやすくなります。

「ローンって何歳まで払う予定なの?」

この聞き方なら、資産を詮索している感じが出ません。そして家計の危険度は、残高そのものより**「収入がない期間に、あと何年払うのか」**でほぼ決まります。

③ 毎月の固定費

保険料、通信費、車の維持費、使っていないサブスクリプション。退職しても自動では下がらないのがこの部分です。

そして、いちばん効果が出やすいのもここです。収入を増やすのは難しくても、固定費は今日決めれば来月から変わります。特に保険は、子どもが独立した後も現役時代のままになっていることが少なくありません。

保険を大幅に見直した話——「安心」は高くつく、という話


それでも切り出しにくいときは

正面から「家計の話をしよう」と言うと、たいてい身構えられます。私が現実的だと思う入り口は次の3つです。

自分の話から始める。 「うち、保険を見直したら結構下がってさ」と自分の家計を開示すると、相手も話しやすくなります。お金の話は、先に手の内を見せたほうが進みます。

制度の話から入る。 「年金の制度が変わるらしいよ」といったニュースを入り口にすると、個人の懐の話ではなく一般論として始められます。

書類を一緒に見る。 ねんきん定期便でも、保険証券でも構いません。「一緒に見る」形にすると、詰問ではなく共同作業になります。

いずれにしても、一度で全部を聞き出そうとしないことです。何回かに分けたほうが、結果的に多くのことが分かります。


ただし——知識があれば解決した、とは限らない

ここまで書いておいて、最後に正直なことを書きます。

もし当時の私に今の知識があったら、父と一緒に何かを解決できたのか。私には分かりません。

親の望みと、子が「こうしてあげたい」と思うことは、必ずしも一致しないからです。私が「ローンを整理して身軽になったほうがいい」と考えたとしても、父にとってその不動産は、手放したくない何かだったかもしれません。数字の上で正しい選択が、本人にとって最善とは限らないのです。

そして今となっては、それを確かめる方法もありません。

エビデンスとアートの融合

医療は、エビデンスをもとに進化してきました。エビデンスは大切です。ただし、そのエビデンスのもとになった患者さんたちと、目の前の患者さんがどれだけ一致しているかによって、データの取り扱い——推奨の強さ——は変わります。この匙加減が、アートの領域です。

私は外科医です。手術には、エビデンスに基づいて決まる部分と、そうでない部分があります。ガイドラインが示すのは「多くの場合の最適」であって、目の前のひとりに対する唯一の正解ではありません。最後は、その人の生き方や価値観に合わせて選ぶ——医療ではこれを、技術と並ぶもうひとつの側面として扱います。

ライフプランも、まったく同じだと思います。

正解の選択肢はひとつではありません。複数あって、どれも一長一短で、最後は好みの問題になります。ローンを繰り上げ返済して安心を買うのも、手元の現金を残して選択肢を確保するのも、どちらも間違いではありません。数字だけでは決まらない領域が必ず残ります。

だとすれば、お金の知識に何ができるのか。

解決を保証することはできません。できるのは、会話のテーブルにつくことです。

知識がなければ、そもそも話が始まりません。相手が何に困っているのかも分からない。私が失ったのは「正しい解決策」ではなく、父と一緒に考える時間そのものでした。


おわりに

親からのお金のサインは、「助けて」という形では届きません。昔の貸し借りだったり、不機嫌だったり、遠回しな一言だったりします。

それを受け取れるかどうかは、こちらの知識にかかっています。そして確認しておけることは、そう多くありません。

  1. 年金がいつから、いくら始まるか(ねんきん定期便に書いてあります)
  2. 借入の完済が何歳になるか
  3. 毎月の固定費

この3つです。資産額を聞き出す必要はありません。

そのうえで、答えは一つに決まらないということも、頭の隅に置いておいてください。正しい答えを出すことより、一緒に考えられる関係を先に作っておくことのほうが、たぶん大事です。

私は、それをしないまま時間を使ってしまいました。同じ後悔をする人が少しでも減るなら、この記事を書いた意味があります。

親御さんが元気なうちに、「毎年届くあのハガキ、見てる?」と聞いてみてください。そこから始められます。


参考情報

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筆者:田舎の県庁所在地に住む医師。外科学会専門医・乳癌学会認定医。現在は乳がんの検診・診断と緩和ケアを専門に担当。医師になって20年。 お金の勉強はリベラルアーツ大学(リベ大)を参考にしています。